繋げる、壊す、私を放棄する

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もう何時間くらい歩いているだろう。
彼はその場に立ち止まり、流れる汗を拭った。
「よくもまあ、ここまで来たもんだ」
遠くに美しく映る山々を目に、そんな風に、わざとらしく一人ごちてみせる。
「本当ですね」
突然、隣で小さな声が返事をした。
彼は驚いて、声の主を見やった。
「本当に、本当ですね」
彼は、あっと声を飲み込んだ。
声の主には、顔がなかった。

(ああ。また、この夢か。)
不快な気分で目を覚ました彼は、大きな伸びと共にため息を体から追い出した。
最近、同じ夢を何度も見る。
何か意味でもあるのかと思い調べたりもしたが、結局何も分からなかった。しかし、夢は別世界と繋がっているという考え方もあるようで、
彼はそこに足でも踏み入れてしまったのではないかと面白半分にとらえることにした。
「今日はいい夢が見たいよ」
雑な動作で歯を磨きながら、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺める。
嫌な夢ばかり見るので、目の下の隈が随分濃くなってきている。そう、ぼんやり考えていたが、彼はふとあることに気がついた。
(俺は、こんな顔をしてたか)
鏡に映るのは、自分の知っている自分の顔ではない。全くの別人だった。
疲れ果て、青白く痩せこけた男が、うつろな瞳で鏡越しにこちらを見つめている。
「お前は、誰だ」
震える声で彼が聞くと、鏡の中の男は呻くような声で囁いた。
「お前だよ」
その声は、彼のすぐ耳元で聞こえた。

「ちょっと、大丈夫?」
聞き覚えのある声に起こされ、彼は目を覚ました。
視界には見た事のある花柄のワンピースが風になびいていた。
「……夢か」
覚醒していくにしたがって、彼は自分は今まで奇妙な夢見ていたと知った。
「変な夢だよ。夢の中で夢を見てるんだ」
「へえ」
笑いを含んだ声で、相手は相槌を打つ。ワンピースは、ゆるやかに風に揺れている。その様子に、彼の頭にはある疑問が浮かんだ。
(どこから風が吹いているんだ。)
それもそのはずで、彼は全く風を感じていなかったのだ。
「どうしたの?」
考え込む彼に声は問いかける。思い返してみると、この声にもワンピースにも何一つ覚えがないような気すらして、一気に腹の辺りが冷たくなっていく。
「どうしたの?」
いつの間にか感情のなくなった相手の声から、彼は慌てて逃げ出した。
しばらく走って、ようやく落ち着いたところで振り返ると、大きな木の枝に、頭を垂れた何かがぶら下がって揺れているのが見えた。
(まだ、まだ、まだ夢なんだ。)
彼は必死で夢の出口を探した。しかし、そんな物は存在しなかった。目覚めなければ、夢は覚めない。
「俺は、いつ目覚めるんだ」
彼は自分が狂乱していく様が恐ろしかった。髪はひどく乱れ、見開いた目は、ぎょろぎょろと見えぬものを求め終始動いている。
(なぜ俺は、自分の姿が見えるのだ。)
第三者の視点のように、彼の目には彼の姿が映っているのだ。
(そうか。俺が見ているんだ。眠っている俺が、夢の中の俺の姿を見ているんだ。)
「起きろ、起きてくれよ」
ありったけの声で彼は自分自身に叫んだ。

カーテンの隙間から差し込む光が瞼越しに彼の目を差す。
唸り声を上げ、彼はようやく目覚めた。
「ああ、どうして……」
薄っぺらい布団の上で芋虫のごとく縮こまりながら、彼は悲壮な表情を見せた。
「どうして、俺は俺を起こしてしまうのだろう」
ぶつくさと文句を言いながら、彼はおぼつかない足取りでベランダに出た。
生ぬるい、錆びた鉄の臭いを纏った風が頬を撫ぜる。
古びたベランダの柵は風化して、もうすっかり役目を果たしてはいない。
「あっ」
急な眩暈によろめいた拍子に、彼はベランダから落下した。
地面に叩きつけられる瞬間、彼の脳裏にいつかの記憶が蘇った。
(そうだ。俺は死んでいるのだ。)
固い地面に横たわる男の瞳は閉じられ、彼は再び悪夢へと戻っていった。

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